企業情報
- 商号
- 株式会社 関口フランスパン
- 代表者
- 代表取締役 高世 勇一
- 設立
- 昭和4年(創立明治21年)
- 本社
- 〒112-0014 東京都文京区関口2-3-3
TEL: 03-3943-1665 FAX:03-3943-1669
明治6年キリスト教の解禁後、近代日本が迎えた初のローマ法王の使者 オズーフ司教が神父のペトロ・レイ師と共に、明治20年頃、山の手の関口町へ赴きました。
ペトロ・レイ師は、教会経営の孤児院の子供たちに何か文化的な職業を身につけさせようと考えた結果、パンの製造を思いつきました。子供たちの中から長尾鉀二(後の関口フランスパン職工長)を選び仏印に送り出し、本格的にフランスパンの製法を勉強させました。
そして彼の帰国後、教会敷地内に製パン工場を建て、関口フランスパンは、明治21年(1888年)4月、小石川関口教会(現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業しました。日本における本格派フランスパンの誕生といえましょう。
その後、大正3年(1914年)第一次世界大戦がはじまり、フランス本国から孤児院に対する援助金が途絶え、パンの製造も出来なくなってしまったため、教会の信者であった初代社長高世啓三が工場経営の一切を引き継ぎ、関口町に新工場を建設し関口フランスパンとして発足しました。
そして各国大使館、在留外国人、一般家庭に広い需要を持つことになり、明治、大正時代の江戸っ子にフランスパンの名家として評判を呼びました。青春時代をフランス留学生として過ごした西園寺公望公爵も、生涯変わることなき関口フランスパンのファンでした。
関口フランスパンの歴史は、日本のフランスパンの歴史。その誇りを大切にし、この地に生まれた関口フランスパンがこの地にしっかりと根を下ろし、これからも多くの方々に愛されつづけていける店になれるよう、いっそうの努力をいたす所存でございます。
※ 下記に掲載している写真a~eは昭和30年代のものです
フランス人宣教師によって事業を始められた関口フランスパンにとって、キリスト教とのかかわり抜きにしてはその歴史を語ることは出来ません。又それと同時に、キリスト教にとって「パン」というものも非常に重要な意味を持つものとして存在します。
イエスキリストが、人類の罪を一身に背負い十字架に磔となる前夜、12人の弟子を集めイエスを囲んで最後の晩餐が開かれました。その席でイエスは、弟子たちに向かって先ず食卓にあった一塊のパンを取り上げ、割って弟子たちに与えながら仰せになりました。
「これは、私の身体。これを受けて食べなさい。」そして杯を取り上げ、彼らに渡しながら「これは、多くの人のために流される私の契約の血。これを受けて飲みなさい。」そしてこれを記念して、以後も同じよう続けるようにと仰せになりました。
こうしてイエスがなくなった後でも、パンと葡萄酒をいただくことで血と肉の代わりと為し信仰を固める行為、即ち「ミサ祭儀」が行われるようになりました。そして、パンと葡萄酒は、キリスト教の布教と生活に、無くてはならないものとなったのです。
"発酵した練り" の一部をとって、次のパンのために保存したものを言う。新約聖書では、パンを膨らませる力を、神の国を成長させる力にたとえた場合(マタイ13章:33節、ルカ13章:21節)と、反対に、ものを腐敗させる要素と言う意味で、ファリサイ派やヘロデに当てはめて言う場合(マタイ16章:5-12節)など、いずれも象徴的に用いられている。
一つのパンを手でちぎって多くの人に分け、一緒に食べること。食事を共にすることは兄弟の交わりを意味した。イエスが多くの人にパンをお分けになった奇跡(マタイ14章:19章、ルカ9章:16節)や、最後の晩餐のとき(マルコ14章:22節)などに、この表現が用いられている。また原始教会の信者たちの交わりも、パンを分け合う共同の食事を中心としていた。
関口フランスパンは、明治21年(1888年)4月に小石川関口教会(東京カテドラル聖マリア大聖堂のある現関口教会)付属聖母仏語学校製パン部として創業した。
写真は大正末期から昭和初期の関口教会。